Início / BL / 偶然を装って / 第七話 コンペ勝利

Compartilhar

第七話 コンペ勝利

Autor: 海野雫
last update Data de publicação: 2026-05-07 19:04:36

 月曜の朝、朔也はアラームが鳴る前に目を覚ました。

 月曜は普段、寝起きが悪い。社会人になって以来、目覚ましより先に起きるのは初めてかもしれない。

 緊張しているのか。自分の胸に問いかけてみる。

 たぶん、そうだ。今回は初めて、自分から手を挙げた案件だった。

 あくびをひとつして、ベッドを出た。

 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのキャップをひねると、カチッと小気味のいい音がした。口をつけて、半分以上を一気に流しこむ。よほど喉が渇いていたらしい。一度口を離して息を吐き、残りも一気にあおった。

 洗面所で冷たい水を顔にかける。たったそれだけのことで気分がしゃきっとするから不思議だった。

 鏡に映った顔を、しばらく見つめた。疲れの色は残っていない。

 よし、と心のなかでだけ呟いた。

 今日はトキワ文具のオリエンテーションだ。出席して内容を漏らさず持ち帰り、コンペで勝つための算段を立てなければならない。

 顎の先から雫が一滴、落ちた。それを拭うでもなく、朔也は鏡のなかの自分をもう一度、見つめ直した。

 いったん会社へ出社して資料を整え、それからプランナーと連れ立ってトキワ文具へ向かった。これだけ気合いを入れたら、緊張で足が重くなりそうなものだ。それなのに、足取りは妙に軽かった。

 トキワ文具のビルの前で、一度立ち止まった。

 ここに、紡がいる。

 そう思っただけで、心が勝手に小さく跳ねた。

 別に会えるわけでもないのに大げさだな、と心の隅で自分を笑う声がした。それでも構わなかった。同じ建物のなかにいる、というそれだけのことで、朔也の胸は十年ぶりに、奇妙な温度を取り戻していた。

 とにかく、この案件は絶対に取りにいく。仕事で紡と組めるとは限らない。それでも、廊下のどこかですれ違うかもしれない。エレベーターで居合わせるかもしれない。それくらいの距離に、もう一度戻りたい。それだけが、いま朔也を動かしている動機だった。

 会議室へ通されると、長机が整然と並んでいた。白い天板に白い椅子。何色にも染まっていない白が、目にすこし眩しかった。

 ネームプレートに「セントラル・アド」と書かれた席に座る。隣の席に座る他社の担当者に会釈をしたが、相手の表情に熱はなかった。気乗りしない案件に押しだされた、というふうに見えた。

 そういう相手には、負ける気がしなかった。

 開始までの時間で、机に置かれていた資料を流し読みした。ブランドコンセプトと、最低限の概要。ここに書かれていない部分こそオリエンで聞きだす値打ちがある。朔也はノートパソコンの電源を入れて、画面を立ち上げた。

 開始時刻。

 トキワ文具の関係者が会議室に入ってきた。朔也の視線は、無意識に入り口に向いていた。

 紡は、いない。

 そうだろうな、と思いながら、それでもどこかで期待していた自分に、朔也は気づいた。気づいてしまってから、自分のあさましさをすこし、笑った。

「本日はお集まりいただきありがとうございます。本プロジェクトの責任者の、相沢と申します」

 頭を下げた相沢を、朔也は静かに観察した。四十代だろうか。ウェリントン型のメガネ、整った顔立ち。仕事のできる男特有の、無駄のないまなざし。

「では早速、プロジェクトの説明に入ります。お手元の資料をご覧ください」

 相沢が前方のスクリーンに資料を映し出す。会議室に、ペラッと紙をめくる音が広がった。

 ブランドコンセプト、ターゲット、予算、市場投入までのスケジュール。淡々とした、しかし丁寧な説明だった。最後に、求めるクリエイティブの方向性についても、相沢は明確に言葉にした。

「我々はこのプロジェクトで、新しい客層の開拓を目指しています。これまでのトキワ文具らしさは、いったん忘れていただきたい。新しい会社をひとつ立ち上げるくらいの意気込みで取り組んでいただきたい。既視感のあるものは要りません。まったく新しいものを、一緒に作っていきたいと思っています」

 相沢の声に、芯の通った力強さがあった。

 社をあげて取り組んでいる、という空気が、言葉の温度から伝わった。

 質疑応答も含めて九十分。あっという間だった。朔也は一言一句を逃さない覚悟で、画面に文字を打ち続けた。

 オリエンが終わると、他社の担当者からは、ため息とも感嘆ともつかない声がもれた。求められている水準が、彼らにとっては高すぎた、ということだろう。

 ならば、セントラル・アドに勝算はある。自分たちは小回りが利く。スピードと精度のバランスで、大手から案件を奪える。トキワ文具の求めているものを、いちばん厚く返せるのは自分たちだ。

 会議室を出るときには、朔也の目の奥に、はっきりとした熱が点いていた。

 会社に戻ると、朔也はすぐにチームを招集した。

 プランナー、コピーライター、アートディレクター、デザイナー。集まった全員の顔を見渡してから、朔也は腹に力を込めて口を開いた。

「このコンペ、勝ちにいく」

 新規案件にこれまで自分から手を挙げたことのない男が、静かにそう言うと、会議室の空気が一段、張りつめた。

 普段の朔也を知るメンバーが、互いに顔を見合わせている。それも、無理はなかった。いつも飄々として、仕事にここまでの熱量を見せたことのない男なのだ。

 自分でもわかっていた。十年分の熱を、いま、別のかたちで吐きだしている。

 朔也はオリエンの内容を詳細に共有した。ブランドコンセプト、ターゲット、予算、求められるクリエイティブの方向性。聞いていたメンバーの目の色が、徐々に変わっていく。

「うちにぴったりの案件じゃないですか」

「いけますよ、これ」

 メンバーから、口々に声が上がった。

 このメンバーなら、勝てる。確信に近い直感が、朔也のなかに根を下ろした。

 朔也はもう一度、コンセプトの一行に目を落とした。

 「余白のある生活」。

 ふと、自分には余白などあるだろうか、と考えた。

 ない。仕事ばかりで、趣味と呼べるものは、もうない。学生時代、休みの日に近くの公園でぼんやり過ごしていたころが、いまは遠い。日本に帰ってきてからの数年は、自分も周囲もずっとせかせかと動き続けている。気持ちが休まる時間が、どこにもない。

 気持ちが休まらないとき、朔也の頭にはいつも、ひとりの顔が浮かんだ。浮かべて、すぐに消す。十年前、自分はあの男のそばから逃げるようにアメリカへ渡ったのだ。なにひとつ、自分の気持ちは伝えないままで。

 伝えても、どうせ拒絶される。だから言わなかった。なにも言わなかった、ということが、十年経った今、自分の生活に「余白」を残さなかった理由なのかもしれなかった。

 はっと我に返って、会議室を見渡した。メンバー全員が、朔也の言葉を待っていた。

 いまは、案件のことに集中する。

「コンセプトの『余白のある生活』を、深掘りする方向でいきたい」

 朔也が舵を切ると、アイデアが堰を切ったように出はじめた。広告コピーの方向性、ビジュアルのトーン、パッケージの手触り。どれも、blancという名前にふさわしい質感だった。

 チーム全体の熱が上がっていく。気づけば、外はすっかり夜で、終電が近づいていた。

 深夜まで議論を回すと、いつもなら翌日まで疲労を引きずる。けれど、自分がメインで動いている案件のときは、なぜか引きずらない。

 朔也は午前中、前日の高揚を引きずったまま仕事を回せていた。昼前、その勢いが切れて、急に眠気が襲ってきた。給湯室へ足を向ける。

 コーヒーメーカーにカップをセットして、抽出される音を聞きながら壁にもたれた。目を閉じる。

「お、お疲れ」

 声をかけられて目を開けると、篠原がコーヒーカップを手に給湯室に入ってきたところだった。コーヒーの香りが、ふわりと広がる。

「おう、お疲れ」

「なんか疲れてるな」

「そんなことない」

 朔也はカップを手に、給湯室を出ようとした。

「お前、今回、本気だな」

 篠原の声が、背中に届いた。振り返ると、篠原はうっすら笑っていた。

「まあな。大型案件だから」

「それだけかよ」

 喉のあたりが詰まって、すぐに答えが出なかった。

 それだけではない、ということを、朔也が誰よりも自分でわかっていた。

「まあいい。勝てよ」

 篠原は手をひらひらと振って、給湯室から朔也を追いだすような仕草をした。

「わかってる」

 朔也はそれだけ言って、給湯室を出た。

 プレゼン前夜、朔也はひとり、オフィスで資料の最終確認をしていた。

 ブランドの核、戦略設計、クリエイティブ案、予算配分、スケジュール、ローンチプラン。何度目を通しても、欠けは見つからなかった。

 これで、勝ちにいく。

 自分とチームの仕事を信じる。それだけだった。

 プレゼン当日。

 朔也は臆することなく、持ち時間六十分をフルに使ってプレゼンを終えた。他社より予算は抑え、戦略設計は精緻で、クリエイティブには明確な方向性と、深い愛着があった。

 手応えは、確かにあった。

 審査側の中央に座る相沢の表情は、他社のときとは違っていた。要所で目を細め、要所で頷く。聞き手としての反応に、好感のリズムがあった。

 質疑応答にも澱みなく答えた。終わったとき、朔也のシャツの背中は、自分でも驚くほど汗で湿っていた。

 週末、朔也は気が気ではなかった。コンペは金曜の午後。当日中に結果が出る予定だったが、選考が長引いたのか、連絡は来なかった。

 手応えはあった。相沢があれだけ集中して聞いていた。間違いない、と何度も自分に言い聞かせる。それでも、結果が出るまでは確信は確信になりきらない。

 どこへ出かける気力もなく、土日は部屋でうっすらと過ごした。何度もスマホを確認しては伏せ、伏せてはまた手に取った。

 月曜の十時、朔也の席の電話が鳴った。

『有馬さん、トキワ文具からお電話です』

 取り次いだ同僚の声が、心持ち、震えている気がした。朔也は受話器を持つ手に力を込めた。

「ありがとうございます、繋いでください」

 プツッと小さな音がして、外線に切り替わる。

「お電話、ありがとうございます。セントラル・アドの有馬です」

『トキワ文具の相沢です』

 相沢本人からの電話だった。朔也の手のひらに、じわりと汗がにじむ。ごくりと唾を飲み込んだ。

『選定の結果、今回の件、御社にお願いすることになりました』

「……っ」

 肺に新鮮な空気が一気に入ってくる感覚があった。それまで息を止めていたことに、朔也は自分で気づいた。

「ありがとうございます」

 受話器を持ったまま、つい頭を下げてしまった。相手は見ていないのに。

『今後とも、よろしくお願いします』

 相沢の声は丁寧だった。仕事のできる人間は、年下の取引先に対しても語尾まで丁寧だ。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。精一杯、務めさせていただきます」

 受話器を置いて、朔也はそのまま課長席へ向かった。歩きながら、息が上がっていた。

「課長、トキワ文具、勝ちました」

「おお、そうか」

 課長は立ち上がり、フロア全体に向かって声を張った。

「トキワ文具の案件、うちが取ったぞ」

 わ、と歓声が広がり、拍手が起こった。朔也は深く頭を下げた。自然と頬が紅潮しているのを、自分でもわかった。

 そこへ篠原が近づいてきた。

「おめでとう。お前、今回ほんとに本気だったな。なにがあった?」

 朔也は、笑っただけで、なにも答えなかった。

 席に戻ると、トキワ文具から先方の正式メールが届いていた。今後の進行についての詳細と、キックオフの日程、参加者名簿が添付されている。

 朔也は名簿のPDFを開いた。

 目が、一点で止まった。

 トキワ文具株式会社 営業企画部 白瀬紡。

 十年ぶりに活字で見る、その名前だった。

 たった三つの単語の並び。

 なのに、朔也の胸を焼くには、それだけで、十分だった。

Continue a ler este livro gratuitamente
Escaneie o código para baixar o App

Último capítulo

  • 偶然を装って   番外編 第六話 半歩の距離

     まったく計画のないデートだった。最初は不安でいっぱいだったのに、終わってみればおかしいくらいに楽しかった。予定をぜんぶ捨てて、行き当たりばったりに歩いた一日。あんなに身軽な気持ちは、ひさしぶりだった。 夕飯は、デートとも呼べないような居酒屋に入った。会社帰りにふらりと寄れる、どうということのない店だ。それでも特別に思えるのだから、恋人というのは不思議だと思う。瓶ビールを一本ずつ空けて、串をつまんで、どうでもいい話で笑った。なんでもない時間が、こんなにあたたかいなんて。 店を出て、朔也と並んで歩く。夜風はもう、刺すような冷たさを失っていた。街灯の灯りが、アスファルトにやわらかくにじんでいる。 そのはずだったのに、気づくとまた朔也の半歩後ろを歩いていた。 高校のころからの癖だ。半歩うしろから、朔也の左肩越しにその横顔をながめて歩く。朔也がいちばんかっこよく見える角度。ずっと見つづけても飽きない、好きな顔だ。うしろを歩いていれば、いくら見つめても気づかれない。高校時代は、紡はずっとその特等席から朔也を見ていた。 手が触れそうで、触れない距離。もう触れてもいい相手なのに、染みついた間合いはそう簡単に抜けてくれない。並んで手が当たったら、隠してきた想いまで知られてしまう気がして。いまはもう知られてかまわない相手なのに、足はやっぱり勝手に半歩うしろへ下がる。 癖というのは、しぶといものだな。ひとりでおかしくなって、肩を揺らして笑った。 そのとき、朔也が紡へ顔を向けた。むっとした顔をしたかと思うと、歩幅をゆるめて紡の横に並んだ。「なんだよ」 むくれた顔で、紡を睨んでくる。ふだんより気の抜けた私服姿の朔也の横顔が、すぐ目の前にある。「いや、なんでもない……」「ちゃんと話そうって、言ったばっかじゃねえか」 唇を尖らせて拗ねた顔に、ふいに高校の朔也が重なった。昔も、よくこんな顔をしていた。久しぶりに見られて、胸の奥があたたかくなる。怒った顔も拗ねた顔も、ぜんぶ好きだ。十年前は、そう思っていることすら必死に隠していたのに。「ん…&he

  • 偶然を装って   番外編 第五話 初めての約束

     四月最初の土曜日。 朔也と、「偶然」ではなく「約束」をして出かけた。 丸一日、朝から晩までのデートだ。高校のころは休みのたびに連れ立って遊んでいたけれど、社会人になってからは初めてだ。十年ぶりのはずなのに、なぜか初めて遠出するような心地がした。 思えば、この十年のあいだ。朔也と過ごす時間はいつも、「たまたま」の顔をしていた。下校がいっしょになったのも、駅で再会したのも、ぜんぶ偶然のふりをして手に入れた時間だった。 それが、今日はちがう。約束して、待ち合わせて、会う。たったそれだけのことが、こわいくらいに新しい。 偶然なら、もし断られても「たまたま」で済む。約束は、そうはいかない。会いたいと、はっきり口にしなければ始まらない。十年ものあいだその一言が言えなかったのに、いまは平気で『土曜あけといて』と打てる。それが、自分でも信じられなかった。 前夜、電話で行き先を相談した。「朔也は、行きたいところある?」「紡は?」「俺は……ちょっと、服を買いたいかな」「じゃあ、ショッピングに行こうか」「そうだね」 行き先は、大型ショッピングモールに決まった。あそこなら店も多い。朔也の気に入る店も、きっとあるはずだ。 電話を切ってから、紡はスマホを開いた。せっかくの初デートだ。朔也を退屈させたくない。気づけば、時刻まで書き込んだ行程表をひとりで仕上げていた。 われながら気合いが入りすぎだと思う。でも、初めての約束をどうしても特別にしたかった。 翌朝。待ち合わせの駅に着くと、朔也はもうきていた。 四月は日中こそあたたかいが、朝晩はまだ冷える。紡は薄手のジャケットを羽織ってきた。朔也はパーカーにジーンズという、ずいぶん若々しい出で立ちだった。仕事中のスーツ姿しか見ていなかったから、その私服がやけに新鮮に映る。知らない朔也をひとり占めしているみたいで、ひそかにどきどきした。「ごめん。待った?」 小走りで近づくと、朔也がふいに頬を赤らめた。

  • 偶然を装って   番外編 第四話 全部わかっていた

     トキワ文具のプロジェクトが、終わった。仕事を口実にして、紡に会いに行く理由がなくなる。そう思うと、少しだけ惜しい。 とはいえ、もう姑息な手を使う必要もない。ようやく紡が自分のものになったのだから。手に入れたとたんに失うことばかり考えるのは、われながら難儀な性分だ。 仕事中も、つい口元がゆるむ。十年想い続けた相手と、付き合えている。それだけで、世界がやけに明るく見えた。我ながら、単純だと思う。だがさんざんこじらせた身からすれば、これくらいは許されていいはずだ。 デスクでにやけていると、篠原が寄ってきた。「おい。今日、飯行くぞ」「あ……おう」 そういえば、さんざん相談に乗ってもらっておきながら紡と付き合いはじめたことをまだ報告していない。今夜、飯を食いながら言うか。 気にしていないそぶりだが、篠原のことだ。たぶん、とっくに気になっている。「いつもの店でいいか」「ああ」 篠原といつも行く定食屋は、魚がうまい。酒がすすむ味付けなのに、飲まなくてもうまい。会社の近くにこういう店があるのは、自炊をしない朔也には助かる。 仕事を終えて、ふたりで暖簾をくぐる。朔也は焼き魚定食と生ビール、篠原は魚フライ定食と生ビールを頼んだ。「はい、お待ち」 運ばれてきたジョッキを、軽く合わせる。「プロジェクト、お疲れ」「サンキュ」 ビールを流し込むと、炭酸が胃のあたりまで心地よく落ちていった。 店内は仕事帰りの客でほどよく埋まり、油と出汁の匂いが入りまじっている。いつもの席、いつもの音。それだけで、肩の力が少し抜けた。 さて、どう切り出すか。いざ口にしようとすると、妙に気恥ずかしい。 ちびちび飲んでいるうちに、定食がきた。ふっくら焼けた魚は、焼きたてが一番だ。朔也はとりあえず箸をつけ、話はあと回しにした。 篠原は、なにも訊いてこない。飯に誘ったのは、その話を聞くためではなかったのか。横顔をうかがっても、表情からはなにも読めなかった。

  • 偶然を装って   番外編 第三話 知ってたよ、という友情

     プロジェクトの打ち上げが、終わった。 しばらく胸のなかでゆらめいていた残り火が、打ち上げが終わったとたんに吹き消された気がした。 打ち上げをするということは、プロジェクトが無事に幕を下ろしたということだ。これでもう、朔也と仕事を通じて関わることはない。 そう思うと、達成感のすぐ裏で小さなさびしさが顔をのぞかせた。 けれど、トキワ文具はこれだけの実績を上げたセントラル・アドを、そう簡単には手放さないだろう。また別のプロジェクトで、一緒になる日がくるかもしれない。 そのとき、また朔也と組めたらいいな。そう考えるだけで、紡は頬がゆるんだ。 もう恋人なのだから、仕事で組む必要はないのかもしれない。それでも、仕事中の朔也は普段の何倍も輝いて見える。恋人フィルターのせいだろうか。いや、たぶん本当にかっこいいのだ。 朔也も、同じことを思ってくれていたらいい。 もっとも、また隣で仕事をすることになったら困る。朔也の横顔ばかり目で追って、肝心の仕事が手につかなくなりそうだ。 帰宅して、ひとりでにやにやしてしまった。 まだ決まってもいないことを想像してうれしくなるなんて、これも恋人がいるせいだろうか。馬鹿になってしまうのではないか。そんな不安を抱えたまま、紡はベッドに潜り込んだ。 土曜は、なにもやる気が起きなかった。 これまではプロジェクトに追われ、土日も仕事が頭の片隅から離れなかった。その芯が、ふいに抜けてしまったのだ。紡は廃人のように、ベッドの上で一点を見つめてぼうっとしていた。 そのとき、スマホが震えた。水瀬からだった。『明日、うちで飲まないか』 そういえば、朔也と付き合いはじめてから水瀬とは一度も顔を合わせていない。あれこれと忙しくて、それどころではなかったのだ。 あの夜、背中を押してくれたのは水瀬だった。きちんと礼を言いたい。『了解。つまみ持ってく』『じゃあ、五時な』 紡はスタンプをひとつ送って、了承を示した。 窓の外では、空

  • 偶然を装って   番外編 第二話 打ち上げという公開処刑

     トキワ文具とセントラル・アドの合同打ち上げは、中間慰労会と同じ和食店で開かれた。 金曜の夜七時。店内は、仕事帰りらしい会社員でにぎわっている。 奥の座敷に通されて、紡は小さく息を呑んだ。長机の並びも畳の匂いも、あの慰労会の夜とそっくりだ。前回と同じ、入り口に近い席に腰を下ろす。 セントラル・アドの面々が、続々と入ってくる。 朔也は、紡の斜め前の席についた。配置まで、あの夜と同じだ。 目が合う。朔也の表情は、「大丈夫だ。いつもと同じにしておけ」と言っているようだった。 同じ店、同じ席、同じ顔ぶれ。なのに、ひとつだけ違う。あの夜とは違い、いまは斜め前の朔也と恋人になっている。その事実が、紡の喉を妙に締めつけた。 あの夜、紡はこの席から斜め前の朔也をながめているだけだった。手の届く人ではないと、思い込んでいた。それが半年で、こんなふうに変わってしまった。 メンバーが全員そろうと、相沢本部長が一番奥の席で立ち上がった。「えー、みなさん。本日はお忙しいなか、お集まりいただきありがとうございます」 満面の笑みだった。その顔つきが、そのままプロジェクトの成功を物語っている。「blancは、初週で計画額の百三十パーセント達成!」 声が、座敷いっぱいに響いた。全員が、大きな拍手を送る。「みんな、よくやった!」 相沢がグラスを掲げると、ふたたび拍手が湧き上がった。 紡が斜め前に目をやると、朔也も満足そうに頷いていた。あの夜からふたりの関係が変わってしまったせいで、その横顔を見るだけで落ち着かない。 打ち上げが始まると、セントラル・アドの面々が次々と礼を言いに来た。「白瀬さん、ありがとうございました」「こちらこそ、お世話になりました」 注がれたビールを、口へ運ぶ。酔いが、ゆっくりと回りはじめた。 ふと、グラスに影が差した。篠原だった。「白瀬。顔色がいいな。よく眠れてるみたいだな」 瓶を傾けながら、篠原の口元

  • 偶然を装って   番外編 第一話 ローンチの朝

     無事に、ローンチが始まった。 間に合うのかどうか、始まる前はずっと気が気でなかった。それでもセントラル・アドのメンバーが最後まで尽力してくれて、なんとかスタートを切ることができた。 紡の仕事は、ローンチが始まればそこで一区切りだ。立ち上げが済めば、また次の案件が待っている。それでも今朝だけは、達成感を少しくらい味わってもいい気がしていた。 三月下旬、土曜の朝九時半。 紡は、blancを取り扱う旗艦店の前に立っていた。開店三十分前から、店の前にできた列に並んでいたのだ。 隣には、朔也がいた。 この店に来たのは、仕事のためではない。紡も朔也も私服姿だった。スーツ以外の朔也を見るのは、まだ数えるほどしかない。薄手のコートの襟元からのぞく首筋を見て、なぜか目を逸らしてしまう。 吐く息が、白い。コートのポケットに入れた指先は、冷えきっている。それでも、寒さはあまり気にならなかった。隣の朔也の気配のほうが、ずっと強く意識される。 半年のあいだ、ふたりはいつも机をはさんで向かい合っていた。発注する側と請け負う側として、立場の違いを意識しながら慎重に距離を測ってきた。それがいま、同じ列に、同じ側に並んでいる。たったそれだけのことが、紡にはまだ少し信じられなかった。 朔也がふ、と笑みをこぼした。紡は、体ごと朔也のほうへ向ける。「どうした? なにかあったのか」「いや……」 朔也は、こみ上げる笑いをこらえている。自分が変なことでもしたのかと、背中がひやりと冷えた。嫌われたかもしれない……。その回路は、想いが通じたあとも反射のように残っている。「クライアントと代理店が、旗艦店で開店待ちって……。なにやってんだろうな、俺たち」 朔也が、たまらず吹き出した。 なんだ、自分のことではなかったのか。 紡は、ほっと胸をなで下ろす。 梅の季節はもう終わり、桜のつぼみがふくらみはじめている。朝の空気は、まだ冷たい。けれ

Mais capítulos
Explore e leia bons romances gratuitamente
Acesso gratuito a um vasto número de bons romances no app GoodNovel. Baixe os livros que você gosta e leia em qualquer lugar e a qualquer hora.
Leia livros gratuitamente no app
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status