Home / BL / 偶然を装って / 第七話 コンペ勝利

Share

第七話 コンペ勝利

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-05-07 19:04:36

 月曜の朝、朔也はアラームが鳴る前に目を覚ました。

 月曜は普段、寝起きが悪い。社会人になって以来、目覚ましより先に起きるのは初めてかもしれない。

 緊張しているのか。自分の胸に問いかけてみる。

 たぶん、そうだ。今回は初めて、自分から手を挙げた案件だった。

 あくびをひとつして、ベッドを出た。

 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのキャップをひねると、カチッと小気味のいい音がした。口をつけて、半分以上を一気に流しこむ。よほど喉が渇いていたらしい。一度口を離して息を吐き、残りも一気にあおった。

 洗面所で冷たい水を顔にかける。たったそれだけのことで気分がしゃきっとするから不思議だった。

 鏡に映った顔を、しばらく見つめた。疲れの色は残っていない。

 よし、と心のなかでだけ呟いた。

 今日はトキワ文具のオリエンテーションだ。出席して内容を漏らさず持ち帰り、コンペで勝つための算段を立てなければならない。

 顎の先から雫が一滴、落ちた。それを拭うでもなく、朔也は鏡のなかの自分をもう一度、見つめ直した。

 いったん会社へ出社して資料を整え、それからプランナーと連れ立ってトキワ文具へ向かった。これだけ気合いを入れたら、緊張で足が重くなりそうなものだ。それなのに、足取りは妙に軽かった。

 トキワ文具のビルの前で、一度立ち止まった。

 ここに、紡がいる。

 そう思っただけで、心が勝手に小さく跳ねた。

 別に会えるわけでもないのに大げさだな、と心の隅で自分を笑う声がした。それでも構わなかった。同じ建物のなかにいる、というそれだけのことで、朔也の胸は十年ぶりに、奇妙な温度を取り戻していた。

 とにかく、この案件は絶対に取りにいく。仕事で紡と組めるとは限らない。それでも、廊下のどこかですれ違うかもしれない。エレベーターで居合わせるかもしれない。それくらいの距離に、もう一度戻りたい。それだけが、いま朔也を動かしている動機だった。

 会議室へ通されると、長机が整然と並んでいた。白い天板に白い椅子。何色にも染まっていない白が、目にすこし眩しかった。

 ネームプレートに「セントラル・アド」と書かれた席に座る。隣の席に座る他社の担当者に会釈をしたが、相手の表情に熱はなかった。気乗りしない案件に押しだされた、というふうに見えた。

 そういう相手には、負ける気がしなかった。

 開始までの時間で、机に置かれていた資料を流し読みした。ブランドコンセプトと、最低限の概要。ここに書かれていない部分こそオリエンで聞きだす値打ちがある。朔也はノートパソコンの電源を入れて、画面を立ち上げた。

 開始時刻。

 トキワ文具の関係者が会議室に入ってきた。朔也の視線は、無意識に入り口に向いていた。

 紡は、いない。

 そうだろうな、と思いながら、それでもどこかで期待していた自分に、朔也は気づいた。気づいてしまってから、自分のあさましさをすこし、笑った。

「本日はお集まりいただきありがとうございます。本プロジェクトの責任者の、相沢と申します」

 頭を下げた相沢を、朔也は静かに観察した。四十代だろうか。ウェリントン型のメガネ、整った顔立ち。仕事のできる男特有の、無駄のないまなざし。

「では早速、プロジェクトの説明に入ります。お手元の資料をご覧ください」

 相沢が前方のスクリーンに資料を映し出す。会議室に、ペラッと紙をめくる音が広がった。

 ブランドコンセプト、ターゲット、予算、市場投入までのスケジュール。淡々とした、しかし丁寧な説明だった。最後に、求めるクリエイティブの方向性についても、相沢は明確に言葉にした。

「我々はこのプロジェクトで、新しい客層の開拓を目指しています。これまでのトキワ文具らしさは、いったん忘れていただきたい。新しい会社をひとつ立ち上げるくらいの意気込みで取り組んでいただきたい。既視感のあるものは要りません。まったく新しいものを、一緒に作っていきたいと思っています」

 相沢の声に、芯の通った力強さがあった。

 社をあげて取り組んでいる、という空気が、言葉の温度から伝わった。

 質疑応答も含めて九十分。あっという間だった。朔也は一言一句を逃さない覚悟で、画面に文字を打ち続けた。

 オリエンが終わると、他社の担当者からは、ため息とも感嘆ともつかない声がもれた。求められている水準が、彼らにとっては高すぎた、ということだろう。

 ならば、セントラル・アドに勝算はある。自分たちは小回りが利く。スピードと精度のバランスで、大手から案件を奪える。トキワ文具の求めているものを、いちばん厚く返せるのは自分たちだ。

 会議室を出るときには、朔也の目の奥に、はっきりとした熱が点いていた。

 会社に戻ると、朔也はすぐにチームを招集した。

 プランナー、コピーライター、アートディレクター、デザイナー。集まった全員の顔を見渡してから、朔也は腹に力を込めて口を開いた。

「このコンペ、勝ちにいく」

 新規案件にこれまで自分から手を挙げたことのない男が、静かにそう言うと、会議室の空気が一段、張りつめた。

 普段の朔也を知るメンバーが、互いに顔を見合わせている。それも、無理はなかった。いつも飄々として、仕事にここまでの熱量を見せたことのない男なのだ。

 自分でもわかっていた。十年分の熱を、いま、別のかたちで吐きだしている。

 朔也はオリエンの内容を詳細に共有した。ブランドコンセプト、ターゲット、予算、求められるクリエイティブの方向性。聞いていたメンバーの目の色が、徐々に変わっていく。

「うちにぴったりの案件じゃないですか」

「いけますよ、これ」

 メンバーから、口々に声が上がった。

 このメンバーなら、勝てる。確信に近い直感が、朔也のなかに根を下ろした。

 朔也はもう一度、コンセプトの一行に目を落とした。

 「余白のある生活」。

 ふと、自分には余白などあるだろうか、と考えた。

 ない。仕事ばかりで、趣味と呼べるものは、もうない。学生時代、休みの日に近くの公園でぼんやり過ごしていたころが、いまは遠い。日本に帰ってきてからの数年は、自分も周囲もずっとせかせかと動き続けている。気持ちが休まる時間が、どこにもない。

 気持ちが休まらないとき、朔也の頭にはいつも、ひとりの顔が浮かんだ。浮かべて、すぐに消す。十年前、自分はあの男のそばから逃げるようにアメリカへ渡ったのだ。なにひとつ、自分の気持ちは伝えないままで。

 伝えても、どうせ拒絶される。だから言わなかった。なにも言わなかった、ということが、十年経った今、自分の生活に「余白」を残さなかった理由なのかもしれなかった。

 はっと我に返って、会議室を見渡した。メンバー全員が、朔也の言葉を待っていた。

 いまは、案件のことに集中する。

「コンセプトの『余白のある生活』を、深掘りする方向でいきたい」

 朔也が舵を切ると、アイデアが堰を切ったように出はじめた。広告コピーの方向性、ビジュアルのトーン、パッケージの手触り。どれも、blancという名前にふさわしい質感だった。

 チーム全体の熱が上がっていく。気づけば、外はすっかり夜で、終電が近づいていた。

 深夜まで議論を回すと、いつもなら翌日まで疲労を引きずる。けれど、自分がメインで動いている案件のときは、なぜか引きずらない。

 朔也は午前中、前日の高揚を引きずったまま仕事を回せていた。昼前、その勢いが切れて、急に眠気が襲ってきた。給湯室へ足を向ける。

 コーヒーメーカーにカップをセットして、抽出される音を聞きながら壁にもたれた。目を閉じる。

「お、お疲れ」

 声をかけられて目を開けると、篠原がコーヒーカップを手に給湯室に入ってきたところだった。コーヒーの香りが、ふわりと広がる。

「おう、お疲れ」

「なんか疲れてるな」

「そんなことない」

 朔也はカップを手に、給湯室を出ようとした。

「お前、今回、本気だな」

 篠原の声が、背中に届いた。振り返ると、篠原はうっすら笑っていた。

「まあな。大型案件だから」

「それだけかよ」

 喉のあたりが詰まって、すぐに答えが出なかった。

 それだけではない、ということを、朔也が誰よりも自分でわかっていた。

「まあいい。勝てよ」

 篠原は手をひらひらと振って、給湯室から朔也を追いだすような仕草をした。

「わかってる」

 朔也はそれだけ言って、給湯室を出た。

 プレゼン前夜、朔也はひとり、オフィスで資料の最終確認をしていた。

 ブランドの核、戦略設計、クリエイティブ案、予算配分、スケジュール、ローンチプラン。何度目を通しても、欠けは見つからなかった。

 これで、勝ちにいく。

 自分とチームの仕事を信じる。それだけだった。

 プレゼン当日。

 朔也は臆することなく、持ち時間六十分をフルに使ってプレゼンを終えた。他社より予算は抑え、戦略設計は精緻で、クリエイティブには明確な方向性と、深い愛着があった。

 手応えは、確かにあった。

 審査側の中央に座る相沢の表情は、他社のときとは違っていた。要所で目を細め、要所で頷く。聞き手としての反応に、好感のリズムがあった。

 質疑応答にも澱みなく答えた。終わったとき、朔也のシャツの背中は、自分でも驚くほど汗で湿っていた。

 週末、朔也は気が気ではなかった。コンペは金曜の午後。当日中に結果が出る予定だったが、選考が長引いたのか、連絡は来なかった。

 手応えはあった。相沢があれだけ集中して聞いていた。間違いない、と何度も自分に言い聞かせる。それでも、結果が出るまでは確信は確信になりきらない。

 どこへ出かける気力もなく、土日は部屋でうっすらと過ごした。何度もスマホを確認しては伏せ、伏せてはまた手に取った。

 月曜の十時、朔也の席の電話が鳴った。

『有馬さん、トキワ文具からお電話です』

 取り次いだ同僚の声が、心持ち、震えている気がした。朔也は受話器を持つ手に力を込めた。

「ありがとうございます、繋いでください」

 プツッと小さな音がして、外線に切り替わる。

「お電話、ありがとうございます。セントラル・アドの有馬です」

『トキワ文具の相沢です』

 相沢本人からの電話だった。朔也の手のひらに、じわりと汗がにじむ。ごくりと唾を飲み込んだ。

『選定の結果、今回の件、御社にお願いすることになりました』

「……っ」

 肺に新鮮な空気が一気に入ってくる感覚があった。それまで息を止めていたことに、朔也は自分で気づいた。

「ありがとうございます」

 受話器を持ったまま、つい頭を下げてしまった。相手は見ていないのに。

『今後とも、よろしくお願いします』

 相沢の声は丁寧だった。仕事のできる人間は、年下の取引先に対しても語尾まで丁寧だ。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。精一杯、務めさせていただきます」

 受話器を置いて、朔也はそのまま課長席へ向かった。歩きながら、息が上がっていた。

「課長、トキワ文具、勝ちました」

「おお、そうか」

 課長は立ち上がり、フロア全体に向かって声を張った。

「トキワ文具の案件、うちが取ったぞ」

 わ、と歓声が広がり、拍手が起こった。朔也は深く頭を下げた。自然と頬が紅潮しているのを、自分でもわかった。

 そこへ篠原が近づいてきた。

「おめでとう。お前、今回ほんとに本気だったな。なにがあった?」

 朔也は、笑っただけで、なにも答えなかった。

 席に戻ると、トキワ文具から先方の正式メールが届いていた。今後の進行についての詳細と、キックオフの日程、参加者名簿が添付されている。

 朔也は名簿のPDFを開いた。

 目が、一点で止まった。

 トキワ文具株式会社 営業企画部 白瀬紡。

 十年ぶりに活字で見る、その名前だった。

 たった三つの単語の並び。

 なのに、朔也の胸を焼くには、それだけで、十分だった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 偶然を装って   番外編 第十五話 夕焼けの交差点

     六月の下旬になると、毎日しとしと雨が降り続くようになった。鬱陶しい雨も、好きな人と一緒なら気にならない。 先日、紡の母から電話がかかってきた。例の定期連絡だ。「元気にしているのか」と、毎回同じことを心配してくれる。大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいのに。 そう思いながら、ふと、もう何年も実家に帰っていないことに気づいた。電話の声を聞くたび、少しだけ胸がちくりとする。「お母さん、なんて?」 朔也が、隣からのぞき込んでくる。「いや、別に。いつもの定期連絡。元気にしてるのか、って」「そっか。実家には帰ってないの?」「ここ数年、帰ってないかな……」「じゃあ、帰れば?」「え?」「お母さん、さみしいんじゃないの?」 確かに、そうかもしれない。電話のたびに、同じことばかり聞かれる。元気なの? 仕事は順調? 顔を直接見れば、親ならすぐにわかることばかりだ。それでも電話で確かめるしかないのは、紡が帰らないからだ。「そ……っか」 だからといって、わざわざ帰りたいとも思えなかった。実家には、まだ言えていないことが多すぎる。「なあ。俺と一緒に、地元に行こうよ」「は?」「久しぶりに、高校とか見てみたくねえ?」 朔也との思い出の地を、ふたりで巡ろうということだろうか。実家には数年帰っていないし、高校なんて卒業以来だ。「そう……だな」「そのついでに、実家に寄ればいいじゃん」「あ……」 「ついで」と言ったけれど、本当は、紡が実家に帰りやすいように気を遣ってくれたのだ。なんでもないふりをして、いちばん大事なところをそっと後押ししてくれる。朔也は、いつもそうだ。「じゃあ、朔也も俺の家に来てよ」「俺?」「……うん。大事な人を、紹介したい。でも――」 紡は、思

  • 偶然を装って   番外編 第十四話 段ボールの中身

     六月も中旬になり、鬱陶しい天気が続くようになった。部屋の中は湿気が高くジメジメしている。けれど好きな人といればそんなことすら、気にならないから不思議だ。 もうすっかり朔也の部屋に入り浸ってしまい、この部屋が元から紡の部屋だったのではないかと思えるほどだった。朔也が使っていいと言ってくれたチェストの一番下の引き出しは、紡の服でパンパンになっていた。申し訳ないと思いながらも、チェストの上にも服を積んでいた。収納用のボックスを買おうかとも思ったが、紡は居候の身だ。そんなことはできるはずもなかった。 クローゼットの前でぼんやりしていると、後ろから朔也が声をかけてきた。「紡のもの、増えたな」「……うん。ごめん。つい、甘えていっぱい持ってちゃって」「いいんじゃねえか?」「なにが?」 朔也は一瞬目を泳がせたが、紡を見つめた。耳の端がほんのりと赤くなっている。「……もう、一緒に住んじまったら? そのほうが早くねえか?」 そっけなくそう言うが、朔也の目は真剣だった。 冗談で言っているわけではない。そんなことぐらい、鈍感な紡でもわかった。 紡は息をのんだ。朔也からそんな提案を受けるとは思っていなかったからだ。 この部屋に入り浸るようになってから、ずっとここにいられればいいなと思っていた。けれど、朔也には朔也の生活がある。ひとりになりたいときもあるはずだと思っていた。だから、紡からは「ここにずっといたい」とは言えなかった。 目の奥がじんと熱くなる。 ずっと言いたくて言えなかった言葉を、朔也のほうから差し出してくれた。それがどうしようもなく、うれしかった。「うん、早い! 朔也とずっと一緒にいたい!」 思わず朔也の首に飛びつくと、やさしく受け止めてくれた。「……そうか」 朔也は体の力が抜けたようだった。そのひと言を伝えるだけで、緊張していたのだろうか。 そういえば、もうすぐ契約の更新だった。「俺、この部屋にずっといていいの?」「俺が紡にいてほしいんだよ」

  • 偶然を装って   番外編 第十三話 あの夜の数秒間

     六月になった。梅雨入り前の、からりと乾いた空気が頬をなでていく。 紡と付き合いはじめて、もう四か月目になる。 片想いの時間がお互い長すぎて、最初はうまく心のうちを出せなかった。それでも、一度ぶつかってからは少しずつほどけてきた気がする。 いまでは紡が部屋に来る日のほうが多く、ほとんど半同棲のような暮らしだ。自分の部屋に紡がいる。それだけのことが、いまだに夢みたいに思える。隣で紡が目を覚ますたびに、これは現実かとこっそり確かめてしまう。 ずっと、欲しがることすら自分には許されない気がしていた。それがいま、当たり前みたいに隣にいる。 六月の最初の土曜日。 紡とデートをして、食事をした帰りだった。どちらからともなく足が向いたのは、あの駅だった。紡と再会した、あの駅。 改札をくぐり、ホームの奥のベンチへ向かう。八か月前、朔也が酔いつぶれて眠っていた、あのベンチだ。同じ場所に、同じ形のままぽつんと残っている。ふたりで並んで腰を下ろした。 八か月前のあの夜、ここで酔いつぶれていた自分を紡が見つけた。あのときは、まさかこんな日がくるなんて思いもしなかった。 夜のホームは、人もまばらだった。生ぬるい風が、線路の匂いを運んでくる。 ――言うなら、いまだ。 朔也は、ずっと言いそびれていたことを話す決心をした。 嘘はつかない。隠したいことがあれば、ふたりで決める。先日、そう約束したばかりだった。なら、胸の奥にしまったままのこれもちゃんと渡しておきたい。 大きく息を吸って、腹に力を込める。「あのさ……」「ん?」 紡が、あどけない表情で朔也を見た。一点の曇りもない目が、まっすぐに朔也を映している。その澄んだ目を見ていると、よけいに言い出しづらくなる。「あの夜さ……。『有馬だよね』って言われた瞬間。実は意識が戻ってたんだ」「うん。それは聞いたよ。覚えてないふりした、って」「あ…&hellip

  • 偶然を装って   番外編 第十二話 言う相手、言わない相手

     日曜の夕方、紡はひさしぶりに自宅マンションへ帰ってきた。 いまは朔也の家にいるほうが多く、この部屋に戻るのは週に一度あるかないかだ。長く暮らしてきたはずなのに、こもった空気が、ここをよその家みたいに感じさせる。 窓から差す夕日が、見慣れた家具をオレンジに染めている。ものはどれも元の場所にあるのに、どこか冷たく見えた。郵便受けにたまった広告。流しに伏せたままのマグカップ。生活の止まった部屋の匂いがする。 ここには、紡の荷物がある。けれど、紡の暮らしはもうこの部屋にはない。 ――きっと、あっちでの暮らしのほうが、もう心地いいんだろうな。 そんなことを考えていると、スマホが震えた。画面を見ると、実家からだった。「もしもし」『紡?』 母だった。実家からは月に何度か、こうして電話がかかってくる。もう二十七なんだから心配いらないと言っても、やめてくれない。「母さん、元気?」『私は元気よー。紡は?』 朗らかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。なんだかんだ言って、家族からの電話は特別なのかもしれない。「うん。元気」『仕事は忙しいの?』「あー、うん。新しいプロジェクト任されて、ちょっとね」『そう。体に気をつけなさいよ』「ありがと」 電話の向こうで、母は近所のことや父の愚痴をひとしきり話した。その声を聞いていると、子どものころの台所の匂いまでよみがえる気がした。 他愛もない近況を話していると、ふと母がこぼした。『紡、最近、声が明るいわね』「え?」 心臓が、どくんと跳ねた。 声が明るいのは、たぶん朔也のおかげだ。いや、たぶんじゃない。間違いなく、朔也のせいだ。一緒に過ごすようになってから、毎日が自分でも驚くくらいやわらかくなった。 でも、母はなにも知らない。紡がゲイだということも、朔也のことも。 母は、紡を二十七年見てきた人だ。声の調子ひとつでなにかを感じ取っても、不思議じゃない。それが、うれしいような、こ

  • 偶然を装って   番外編 第十一話 高城という疫病神

     まだまだ自分の気持ちを全部朔也に言えないときもある。けれど、言葉を飲み込む回数はずいぶん減ったように感じる。それは朔也も同じようだった。いつもなら笑ってごまかすところを、きちんと言葉にしてくれる。そうやってお互い、ちょっとずつ前に進んでいる気がした。 苦手なことをするのは、誰だって嫌だろう。それでも朔也のためなら一生懸命になれる自分を見ると、よっぽど好きなんだなと思ってしまう。 朔也の家に着替えを置くようになってから、平日も朔也の部屋で過ごす時間が増えた。増えたというより、ほとんど住んでいるようなものだ。もう、自分の部屋はいらないんじゃないか。そんなふうに思うくらいだった。「はい、お待たせ」「うわっ。うまそ」 朔也は、紡が並べた夕飯を、目を細めて見た。「朔也、全然ご飯作ってくれないじゃん」「ははは。いや、紡の飯がうまいからさ……」 そう言うと、朔也は大皿から麻婆豆腐をすくって小鉢に入れた。スプーンを口に運び、顔をほころばせる。「うまーっ! これ、レトルトじゃないんだろ?」「意外と簡単だよ。調味料さえあればパパッとできるし。今度教えようか?」「いや、いい。紡が作って」「俺、家政婦じゃないんだけど!」 ぷうっと頬を膨らませると、朔也が吹き出した。「相変わらず紡はかわいいなぁ。ちゃんと後で体で払ってやるよ」「えっち! そんなことで済ませられると思うなよ!」「はははは」 くだらないやりとりをして、ふたりで笑う。なんでもない夜だ。けれど、こういう夜こそが紡にはいちばんかけがえのないものだった。 そのとき、紡のスマホが震えた。「誰だろう?」「見たら?」「……うん」 画面を確認すると、高城からのメッセージだった。タップして開く。『白瀬ー! 今度、有馬と三人で飲もうぜ! 同窓会の後、お前らの様子がおかしかったから、気になってさ!』 なんだ、こ

  • 偶然を装って   番外編 第十話 怒ったまま会いに行く

     眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。 ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。 本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。 この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。「ああっ! もうっ!」 紡は頭をかきむしった。 わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。 それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。 昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。 紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージも、なにもない。 もちろん、紡からは電話もしていないし、メッセージも送っていない。ただひと言、「ごめん」と送れば済む話だった。けれど、それでは今までとなにも変わらない。謝って、閉じる。それで丸くおさまったことにして、結局なにも話さないままになる。 ふと、水瀬の言葉がよみがえった。「ちゃんと喧嘩しろよ」 あのときは、どうして水瀬がそんなことを言うのかわからなかった。十年も想い続けた相手なのだから、できることなら喧嘩なんてしたくない。誰だってそう思うだろう。 スマホをサイドテーブルに戻し、頭の後ろで手を組む。 仲直りとは、なんだろう。 怒りがおさまってから会うことだろうか。いや、それを待っていたら、また十年が過ぎてしまう。それだけは、嫌だ。せっかく再会して、恋人同士にまでなれたのに。このまま、なんとなく終わっていくなんて絶対に嫌だった。 紡は、ベッドから飛び起きた。 シャワーを浴びると、頭の芯が少しだけ冷えた。それでも、胸の奥の怒りはまだくすぶって

  • 偶然を装って   第二十七話 深夜の会議室

     あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振

  • 偶然を装って   第九話 会議室のふたり

     キックオフを終えて、次の週からプロジェクトは本格始動した。 週に一度、プロジェクトメンバーが揃って進捗状況の確認を行う会議があった。本当は定例会議だけで事足りるにもかかわらず、有馬が「近くまで来ましたので」と紡を訪ねてくる日が増えていった。気づけば週に一度の定例会議とは名ばかりで、有馬とはほぼ毎日のように顔を合わせている。「あの……有馬さん」「なんでしょう」「そんなに頻繁に来ていただかなくても……」 別に有馬を拒んでいるわけではない。むしろ本心を言えば

  • 偶然を装って   第八話 会議室の扉が開く

     キックオフの当日、紡はいつもより一時間も早く目を覚ました。 今日からblancのプロジェクトが正式に始まる。専任としてアサインされた以上、意気込みはもちろんある。 ただ、目覚めの早さの理由は、それだけではなかった。 数日前、社内システムにキックオフの参加者リストが更新された。トキワ文具側、セントラル・アド側、両社の名前が並んだ表を、紡はなにげなく開いた。 そこに、見慣れた名前があった。 セントラル・アド株式会社 営業三部二課 有馬朔也。 息が、詰まった。「…&h

  • 偶然を装って   第六話 連絡という橋がない十年

     マンションのドアを開けると、見慣れた部屋が目に入った。 壁のスイッチを押して灯りをつける。寝室に向かい、鞄をデスクに置く。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめながら洗面所へ行く。手を洗って、うがいをする。 毎日、変わらない動作だった。同じ順番で、同じ時間に、同じ手順を繰り返している。十年前にはこんな生活を想像もしていなかったし、十年後も、たぶん、同じことを続けているのだろう、と紡は思う。 会社へ行って、残業して、帰って、寝る。それだけが繰り返される、波のない日々。 そこに今月、ふたつの大きなことがあった。仕事で大型のプロジェ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status